ステラコーポレーション
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教会とミサ

教会とは

巡礼旅行では各地で教会を訪ね、ミサにあずかりますが、巡礼旅行ではなくても、海外で教会を訪問する機会はあることでしょう。キリスト教を知らなくても教会に魅かれたり、美術や音楽などの芸術的な観点から教会そのものに興味をもたれる方も多いと思います。
教会について、ミサについて少しここでご説明いたします。今後の教会訪問の際のご参考になれば幸いです。
神によって呼び集められた人々の集まりの場
「教会」という言葉はギリシア語「エクレーシア」、ヘブライ語の「カハール」という言葉に端を発しています。
「エクレーシア」とは、もとは「呼び出された者たちの集い」という、ギリシア市民すべての人が参加して平等や義務を有する集会をさします。「カハール」という言葉もやはり「呼び集める」という言葉からきており、イスラエルの民の「集会」、「共に集まってきた」一団の人々をさします。

それではカトリックの教会では、どのような目的をもって人々が集まり、そこで何をおこなっているのでしょうか。

教会のはじまり

イエスをキリスト(救い主)とする教会のはじまりは、ナザレのイエスの死後、厳密に言えばイエスの復活後にさかのぼります。
師と仰いでいたイエスが逮捕された途端、師を見捨ててユダヤ当局の目を逃れて隠れ潜み、師に対する裏切りと十字架刑に処せられた師に対する失望に落胆していた弟子達。彼らはイエスの復活後、その復活したイエスとの出会いや、イエスが生涯をかけて身をもってのべた福音(よい知らせ)を伝えるべく、宣教の使命を与えられました。(ルカ24:46-48)それはイエスの生涯を通してはたらきかけた神の業の証しです。
こうしてちらばっていた弟子達は再び集まり、弟子達以外にもイエスと出会いによって救われた人々も、生前のイエスの行ないや言葉を記念として行う「パンを裂く儀式(1コリ11:23-26)」のために集まり、必要なものを分かち合い、熱心に祈り、神を賛美していました。(使2:42-47)
この「パンを裂く儀式」とは今日、一般的に呼ばれている「ミサ」をさします。教会を訪れると、ミサが行われている時に遭遇することがあります。
このように教会とは、イエスとの出会いによって、自分の人生に意味が与えられたり、救いを得た人々の「集まり 」(1コリ1:2)であり、「信仰の共同体」とも表現することが出来ます。

皆に開かれている教会

生前のイエスは、ユダヤ人のみならず、当時接触を禁止されていた異邦人や、ユダヤ社会において罪人とされ、徹底的に差別され、社会的に完全に抹殺されていた人々にも近づいていきました。
そしてそのような彼らも決して神の愛から排除されていないどころか、むしろ彼らにこそ、神が彼らのうちにおられることをイエスは強調し、癒しや救いの業を行い、決して人々を分け隔てするようなことはありませんでした。
そのイエスの姿のように、教会は誰にでも開かれるべき場であり、誰でも自由に教会に入って、静かに神に祈ることが出来ます。人間は誰でも神の招きを受けているからです。
誰にでもある「祈る」心、これはもしかしたら根底に神の招きがあるからと言えるかも知れません。

「ミサ」の起源

イエスの生涯・イエスの十字架と復活の出来事に参与する「パンを裂く儀式」の場

「ミサ」は、正式には「感謝の祭儀」、「主の晩餐」、「聖餐式」と呼ばれます。これは「主の晩餐」と呼ばれる出来事に由来し、イエスが逮捕される前に、弟子達との最後の晩餐の時にパンやぶどう酒を取って行った一連の動作や言葉を起源としています。(1コリ11:23-26)
ユダヤ教では安息日の晩(金曜日の晩)に集まって、パンとぶどう酒を祝福し、家族や友人と食事を共にし、食事のひとときを大事にする慣習があります。ユダヤ人であったイエスもまた弟子達と食事を共にし、そればかりでなく, ユダヤ社会では宗教の規範において罪人とされる人々とも分け隔てなく食事を共にしました。
食事はいのちである食物や、友情・愛情を分かち合う場です。十字架刑に処せられるイエスが逮捕される前の最後の晩餐の時、パンを自分の「からだ」、ぶどう酒を自分の「血」として、自分の生涯が人々に与えられることの「しるし」として、弟子達に分かち与え、今後、自分の「記念として」行うように命じたことが「ミサ」の起源です。

ご聖体

イエスの「からだ」である「ご聖体」が置かれている場 

ミサの間に信徒一人ひとりに手渡されるパンは「ご聖体」と呼ばれ、イエスの「からだ」・「いのち」として信徒達がいただきます。これは、「イエスはキリスト(救い主)です、ミサを通してイエスによる救いの出来事に参与します」と信じる信徒が受け取るご聖体です。
「洗礼」を受けていない人は、ご聖体を受け取ることはできません。それは「洗礼」が「イエスと出会い、イエスをキリスト(救い主)として、イエスの十字架と復活の出来事に参与し、イエスに賭けて生きていきます」、という表明でもあるからです。
「ご聖体」は単なるイエスのからだのシンボルではなく、復活して今も現存して、私達と共におられるイエスの目に見える形の「しるし」であるため、カトリック教会では、「聖櫃-せいひつ」の中に安置されています。どこの教会でも目印として聖櫃の近くに赤いランプがともっています。

教会内でのマナー

このように、教会とは、今も私達と共におられるイエス・キリストと共に時を過ごし、祈る神聖な場でもあるので、お寺や神社で敬意を払うように、教会でも敬意を払う必要があります。といっても堅苦しく考える必要はなく、ごく自然にふるまえばよいと思います。
教会に入る時に一礼する、肌が露出している短パンやタンクトップ姿で入らない、大声でしゃべったり、大笑いしない、というように沈黙を守った形で表されるものでしょう。また、教会内での飲食・喫煙や、祭壇内に立ち入ること、カメラでのフラッシュ撮影は厳禁です。
教会内に足を一歩踏み入れれば、様々な像や絵、ステンドグラス、建築様式が目に飛び込んできます。それらにもすべて信仰が表現されています。目が奪われるままにしばし神聖なるひとときを過ごしてみてください。

祈りとは

祈り

巡礼旅行はミサの機会も多く、様々なことを通して神を感じ思う「祈りの旅」ともいえるものですが、そもそも「祈る」とはどのようなことでしょうか。

願いと感謝

人はそれぞれ自分の宗教上の「神」もしくは漠然とした「神様」にむかって手を合わせ、頭を下げて祈ります。それは時に願い事をかなえてもらいたいためであったり、助けを求めるものであったり、感謝の気持ちをこめるときもあるでしょう。
願い事をする祈りは、他力本願のようにも思われますが、いけないことではありません。神に願うのは、神の恵みの大きさを知り、そして神が必ず救ってくれると確信しているからでてくる行為であり、自分の弱さを自覚しているからこそのものだからです。
ただし、現世ご利益は、祈りではなくエゴです。祈ってたまたま聞き入れられたのなら、それは神のお望みだったからであり、聞き入れられなければ、それが自分のためだけの祈りだったからでしょう。
日常生活から離れての巡礼では、いろいろな場面で神の美しさと出会い、自分を再発見し、そして神を賛美・感謝する旅となります。

いろいろな祈り

苦しんでいる人と共にいようとしての祈りや、自分自身を見つめなおす祈りも大切です。
また、自分が苦しいときは、神にむかって嘆き、ありのままの自分をさらけだすことで、自分を開き、聖霊の働きに身を委ねるほど、癒しを感じることもあります。
神の前で、気取ったり自分をとりつくろう必要などありません。神はいつでも私たちを母親が子供を思うような深い愛によって包んでくださっています。 (イザ66:13)
幼子のようにすべてを神に委ね、耳をすまし、心を静め、神の語りかけを聴く。祈ることは神の声を聴くことでもあるのです。

祈りによって「観想」する・・・心の栄養

私達は身体のために日に3回の「食事」をします。一方、心のための栄養、心を養ってくれるものが「祈り」とも言えるでしょう。
そして祈りによって、絶対なる者を「観想」するのです。「観想」とは、真理を思うことで心の奥に深い喜びを体験していくことを言います。真理を知ると、人は至上の喜びを感じることができ、真理の教えに惹かれると、その教えを自分の全能力を使ってでも把握したいという気持ちをおさえられなくなります。

絶対なる神

聖アウグスチヌスが三位一体の神について思いを馳せながら海辺を歩いていた時、天使が現れたといいます。その天使は、砂浜に掘った小さな穴に大海の水を入れる努力をしていました。それを見た聖アウグスチヌスは「それは無理だ」と話します。天使はアウグスチヌスに、貴方がしていることはこれと同じと言います。つまり、人間の小さな頭に絶対なる神の姿を入れることは不可能なのだと。
それでも人は、それぞれ神の教えを得るため、最大の努力はしていかなければなりません。その努力が、祈りであり、観想することなのです。
この絶対者である神を想いながら、ふと眼を自分に向けてみると、自分とは、なんと欠点多きもの、なんと不完全なものと感じます。そして恥じ入ったような気持ちになり、少しでもその絶対者に近づきたいとの気持ちが沸き起こってくることでしょう。
客観的なところから自分を見つめ、自分の環境を見つめ、そして、絶対者の前で、絶対者の偉大さを観想し、その教えに傾聴し、自分の頭をたれて自分のあるべき姿を見つめてみることが大切です。

イエス・キリストを眺める祈り

イエス・キリストは様々な具体例をもって、私たちに真の「祈り」の姿を見せてくださいました。
私たちの心の中にあるキリストを眺める祈りによって、キリストに満たされることが至上の喜びとなり、平安となっていきました。
祈りさえすれば日常の努力が不必要になるということでは決してありません。祈れば祈るほど、キリストにより近づいた生活が必要になり、さらに祈りが身近なものとなるのです。
馬小屋で生まれ、十字架上で亡くなった神の子イエス・キリストは、その全生涯を通して私達に人の「道」、「真理」、「生命」を教えてくださいました。彼だけが私達の歩むべき「道」です。
観想の結果、自分をもっと神様に近づけたいと思って努力するようになるなら、それは祈りによってもたらされた何よりの結果です。

主の祈りをかみしめる

最高の祈りとしてイエス・キリストが私達に教えてくれたのは、「主の祈り」です。この中にすべては凝縮されています。

主の祈り

天におられる私たちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように
みこころが天に行なわれるとおり
地にも行なわれますように
私たちの日ごとの糧を
今日もお与え下さい
私たちの罪をお許し下さい
私たちも人を許します
私たちを誘惑におちいらせず
悪からお救いください

自分自身が今、苦しみの中にいるなどどんなつらい状況にいたとしても、この「主の祈り」を唱えることで、私たち自身をキリストの生涯に重ね合わせ、力を得ることができます。
ひとつひとつの言葉をかみしめながら祈り、イエスがいつも私たちの近くにいることを感じることができるのです。

十字架の道行

十字架の道行(みちゆき)とは

主イエス・キリストの受難を思い起こし、日常に溺れやすい自分自身の信仰が、本来に立ち返るための祈りのことをいいます。
イエスが死刑の宣告を受けたローマ総督のピラト官邸から、ゴルゴダの丘(聖墳墓教会)にいたる道が「ヴィア・ドロローサ」(ラテン語で悲しみの道)と呼ばれ、宣告をうけてから墓に納められるまでが14のステーション(留)に分けられています。
エルサレムでその全長約500メートルの道のりを巡礼し、受難の道を追体験する伝統は、4~7世紀のビザンチン時代に始まったとされています。
エルサレムにおいての現在のルートが決定されたのは19世紀になってからですが、イエスの通った当時の道は地下約3メートルのところに埋もれているといわれています。

ヴィア・ドロローサ

聖地イスラエルの現在の場所とあわせながら、十字架の道行をたどってみましょう。

第1留・イエス、死刑の宣告を受ける

アントニオ要塞のあった現在のエル・オマリーエ小学校の敷地内
(ヨハ19・13-16)

第2留・イエス、十字架を担わされる。

鞭打ちの教会と宣告の教会の小聖堂が隣接している。
(ルカ9:23)

第3留・イエス、初めて倒れる。

アルメニア・カトリックの小聖堂
(マタ26:40-41)

第4留・イエス、み母に出会う。

アルメニア人の「苦悩の母マリアの教会」がある。
(ヨハ19:25)

第5留・クレネのシモンの助力を受ける

(マコ15:21)

第6留・イエス、ヴェロニカより布を受け取る

伝承によると、ここはベロニカの家の跡とされ、ギリシア正教会の小聖堂が建てられている。
(マタ10:40-42)

第7留・ふたたび倒れる

フランシスコ会の小聖堂があり、「審きの門」と呼ばれている。イエス時代には城外に抜ける門があり、イエスは敷居につまずき、倒れたと伝えられている。
(マコ14:36)

第8留・イエス、エルサレムの婦人らを慰める。

聖ハラランボス・ギリシャ正教会の修道院がある。
(ルカ23:27-28)

第9留・三度倒れる

聖墳墓コプト教会の入口にあたる。
(マタ11:28-30)

第10留・イエス、布をはがれる

聖墳墓教会の正面入口を通ってすぐ右手のゴルゴタの丘のラテン小聖堂。
(ヨハ19:23-24)

第11留・イエス、十字架に釘付けにされる

ラテン小聖堂の祭壇。
(ヨハ19:17-19)

第12留・イエス、十字架に死す

ラテン小聖堂に隣接するギリシア正教会小聖堂の祭壇。
(ルカ23:44-47)

第13留・イエス、十字架より下ろされる

ラテン教会、マリアの像がある祭壇。ここで母マリアがイエスのなきがらを受け取ったとされる。
(ヨハ19:25-27)

第14留・イエス、墓に葬られる

(マタ27:57-60)

巡礼旅行での十字架の道行

十字架の道行ポケットタイプルルドでは、山道に等身大の彫刻によって「十字架の道行」が表現されていますが、世界各地の聖堂内でも、この「十字架の道行」をモチーフにした彫刻や絵画などが置かれています。
巡礼旅行中にグループで祈ることもありますが、いろいろな場所に掲示されている「十字架の道行」をそれぞれ探してみるのもいいでしょう。
祈るときには各留の前に立ち止まって、描かれている場面を黙想し、神の愛の深さ、そして人間の罪深さを思い起こしながら祈り、順番に巡っていきます。
上の写真のように普段から持ち歩ける手のひらサイズのタイプもあるので、ロザリオなどと一緒に持ちあるいてもいいかもしれません。

第十五留の追加

教皇ヨハネ・パウロ2世により、十字架の道行には「第15留 イエス、よみがえる」が加えられています。
(使10:40-41)

十字架の道行き小冊子発行のお知らせ

十字架の道行き冊子ステラコーポレーション創立15周年企画として、「十字架の道行き(A6サイズ 2011年7月発行)を作成いたしました。
大分教区の山下敦神父様による祈りの言葉と、ドミニコ会のジラール神父様によるイラストがあわさり、オリジナルのものが出来上がりました。
ステラコーポレーションの巡礼旅行のうち、五島列島やルルド、イスラエルを訪問する際に、それぞれの十字架の道行きで、この冊子の祈りを唱える予定にしております。